主催者からの講師紹介

 本日は、去年の7月に立ち上がりました「死刑に異議あり!」キャンペーンの2回目の院内企画としてこの学習会を設定させていただきました。
  大変に急なことですが、WCADP(World Coalition Against The Death Penalty) 「死刑廃止世界連盟」の運営委員会からいらしているスピーディー・ライス教授を講師としてお招き致しました。ライスさんはアメリカのワシントン・アンド・リーという大学で教鞭をとっておられるかたわら、非常にさまざまな死刑に反対するボランティアの活動に従事されて、国際的に活躍されている方です。
  今日はたまたまカンボジア特別法廷の弁護人のアシストをする活動のために、カンボジアに向かう途中で、「日本は今大変なことになっている。2か月~3か月おきに執行をくり返している。是非、東京に立ち寄って何かできることはないか」ということで、急きょ予定を変更して東京に来てくださったんです。
  本日は、私たちにとってある意味で身近な、いわゆる先進民主主義国といわれる死刑存置国のアメリカにおいて、死刑がどうなっているのか、その最新の情報を伝えていただきたいと思っています。アメリカでは2000年代の入って劇的に死刑を減少している。そのバックグラウンドには何があるのか。同時に全米的に死刑廃止やモラトリアムを求める政治的なイニシャチブが非常に活発になっている。ということで、そのへんの最新事情をライス教授にお話いただきたいと思います。
  では、スピーディーさん、よろしくお願いします。

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ライス教授の講演

 本日はこのような機会を与えていただき、ありがとうございます。私、カンボジアに行く途中でしたけれども、このように日本に滞在することができました。ありがとうございます。
  日本はご存じのとおり、3週間前に4人の人を処刑しておりますし、その意味では非常に緊急事態の度合いが高いということになります。実際、日本では現在でも死刑が本当に使われており、それについてなかなか皆の意識が高まっていないということもあります。そこのところを対話を通じたり、教育を通じたり、そういった取り組みをつなげていって、死刑は必要ないんだということを、どのようにして訴えていくのか、このことを私どもは考えています。
  この死刑の問題を考えるに際して、日本と米国、私は米国の人間ですけれども、その2つの国を比較対照するときに一つ重要な問題があります。この2つの国とも民主主義が本来的には備わっているはずの国だからです。
  この民主主義という問題を扱うに際しては、民主主義を理由にしてそのまま死刑の問題にそれを適用してしまうのは、非常に危ないことだと私は考えています。ここで、日本と米国ともに民主主義によって立つ国として、手続などの透明性、言論の自由が許されているなかにあって、どのようにして死刑廃止のほうにもっていくのかということについて、お互いの経験を共有していきたいと思っています。
  日本と違いまして、米国の場合には常に複数の法制度が存在する。特に2つの法制度が二元的に存在する。そういう国になっております。この2つの法制度は、法域と呼んでいますが、要は2つの政府が常に重なって存在しています。
  米国の制度について詳しくない方のために説明しておきますと、米国には大統領がありますし、連邦政府というものもありますが、この連邦政府には州の死刑を廃止する権限はありません。州の死刑はまったく別個で、主権国家としての州が独自に持っているものですので、連邦政府がそれを廃止することができません。
  連邦政府は立法府・連邦議会を通じて、それから行政部分に関しても同様ですが、連邦の死刑を廃止することはできますし、それから軍事刑法に基づく死刑を廃止することはできます。しかし、州は別です。したがいまして、米国における死刑の問題を扱おうとしますと、50以上のいわゆる法域を持つ主権国家をどうするのかという話に必ずなってしまいます。
  14のそういう法域では、すでに死刑を廃止しております。残る36の州ないし法域が死刑を存続させております。しかしながら、この存置している36のうち、実際に死刑を適用しそれを執行している州というのは、ほんのわずかに限られています。
  こういう複数の法域が重なっている米国のシステムにおいて、最終的に判断を下すことができるものは、ただ一つ連邦最高裁のみであります。
  現段階で、この連邦最高裁が最終的に死刑を廃止するという判断を自分たちで下すことはなかなか難しいことは分かっていますが、理論的にはこの連邦最高裁は連邦憲法に基づき、「残酷で異常な刑罰」に関しましてはこれを廃止する権限を持っていますので、そういう形の判決を出して全部の死刑を廃止するということはできることになっています。
  こうした判断をする際に、連邦最高裁が通常とりますのは、さまざまなケース・事件を通じて標準ができていなければならない。この標準ができあがるためには、連邦下の州の多数がすでに「死刑は連邦憲法修正第8条の残虐で異常な刑罰に当たる」という判断をしていることが、一つのメルクマールになっています。
  こうした法的な仕組み、それからまたそれに対するさまざまな規範的な論点も登場してくるわけですから、これら全体をきちんと見ていくためには、適切なやり方というのは、連邦を通して全体の死刑廃止を実現するということよりは、やはり州ごとに死刑にどのような問題があるのかを争っていくというやり方をとるしか、おそらくないだろうと思っております。ですので、私たちの活動としては基本的に州ごとのアプローチをとっております。
  もう一つ重要なのは、私どもの活動の中で、なぜ死刑が必要ない、というか不適切なものなのかということをきちんと示していくことなんだと思います。そこで問題なのは、世論調査の結果などもその場合に参考にすることになるわけですが、世論調査というものは、ご存じのように、どのような質問に対して答えたものなのか、その回答の選び方や調査を行うタイミングなどによって大きく値が変動すると思われます。したがって、より重要な点は、一つ一つの事案において、死刑事件が例えば陪審制で裁かれることになるわけですが、そのときにできるだけ死刑を是とする評決を回避する、実際の法廷でその評決を出させないようにする、それによって死刑という評決が出る数を劇的に減らしていく、というようなことをしていかなければいけないと考えています。
  いま申し上げたのが米国の基本的な状況ですが、それを10年の単位でその全体の像をまず見てみたいと思います。みなさんのお手もとに資料があります。
  1999年では死刑判決は284件出ております。この1999年には85人が死刑を執行されています。この85人のうちには、いわゆる未成年死刑囚も含まれておりますし、それからまた精神遅滞を持っている死刑囚も含まれておりました。2002年をご覧になっていただくと、169人と劇的に判決数を減らすことができました。これは州法のレベルにおいて、一つ一つのケースについてできるだけ死刑の評決を避けさせるという動きをとったこと、それから死刑になりうるカテゴリー、どのような犯罪なら死刑に処せられるのかという部分でもいろいろと闘い、精神遅滞者に対して死刑を執行するのは修正8条にいう「残酷で異常な刑罰」に当たるという闘いをしたうえで、これだけの数を減らすことができました。
  2005年には、今度は未成年死刑囚に対する死刑はやはり同じように「残虐で異常な刑罰」に当たるということを州法レベルで示し、それを連邦最高裁に対してこのような形で考慮せよということができる状態まで持っていきました。
  2008年にはついに死刑評決を全体で111件にまで減らすことができました。したがいまして、この10年の間に173件評決を減らすことができたということになります。この2008年における執行者数は37人。これは9年前の状態から考えますと相当の人数を減らすことができたということになります。
  州レベルでのこういう形での取り組みに関しましては、例えば州レベルで死刑を制限する法案を提案するという形で進めていきました。そのなかでは当然、ある部分では死刑を抑制する方向に進むが、ほかの部分ではそのままということも十分起こりえますけれども、いずれにしろ一部においてそのような進捗が見られた場合には、これをわれわれの運動の一つの勝利であると考えながら進めてまいりました。
  本日お配りしました資料の一番最初のほうに、さまざまな州における立法における死刑廃止の取り組みの状況がまとめられております。こういうさまざまな段階を踏みながら、各州レベルにおいて死刑を制限するような方向にわれわれは現在持っていっております。
  各州においてさまざまな段階を踏まなくてはいけなくて、これはおそらく日本とは立法の手続が違うと思いますけれども、州レベルにおいても州下院、州上院、それから州知事がいるわけでして、下院は通ったけれども上院が通らなかったとか、あるいは議会は通ったけれども知事が拒否したとか、そういうさまざまな障害がその段階ごとに存在しています。
  日本においても役に立つのではないか思っていて、是非考慮していただきたいのが、州レベルで、一つのこういう手続をとりました。まず超党派の議員によるイニシャチブというものを作って、そのもとに「死刑制度に関する調査委員会」を設置します。そして、この死刑制度調査委員会は死刑を存置する必要があるとする理由や死刑をとりまくさまざまな問題について調査を行って、それをまとめて報告書にして提出します。この報告書の中で、死刑にどのような社会的・政治的な意味合いがあるのか、どういう問題があるのか、それからどういう影響があるのかといったことをつぶさに検証して、それを提案するという形になっています。
  そういった動きを踏まえながらいろいろな立法措置がとられていくわけですが、一つ興味深いのは、例えばカンサス州を見ていただければと思いますが、このカンサス州では将来の事件について死刑を廃止する法案が出ています。これは将来の事件ですので、現在の死刑囚には適用されません。このように政治的にある意味で微妙なものを持っているわけですけれども、この法案が現在上院の法務委員会において聴聞会が開かれ審議されております。これは上院の法務委員会で採択されて上に上がってくるかどうか、これは分からないわけです。現段階では委員会の中での審議しかできていない状態ですが、今後さまざまな障害をクリアしながら出していくということがありえるわけです。カンサスでは、そもそもこのような将来の事件を含めて死刑廃止を法案としてまとめたのは今回が初めてです。これだけのことができるということが、この事例については非常に重要なのではないかと思います。
  カンサス州のほかに7州が、現在そういう形で、死刑を今後やめていく、停止していく、廃止していくという法案などを現在審議している状況にあります。このようなさまざまな試みが行われる背景には、先ほど申し上げた死刑制度に関する調査委員会という制度・手続がございます。この問題についてみなさんによく理解していただくために、メリーランドの例を挙げさせていただこうと思います。
  メリーランドの立法府が死刑廃止法案を提出しようと考えたのは4年前のことだと思いますが、しかしながらその段階では委員会を通過しませんでした。その後2回審議が行われて、最終的に委員会を通ったのですが、その段階で今度は知事が拒否権を発動しました。
  しかしながら、民主制には幸いなことに選挙手続というものがございまして、選挙を経て知事が替わりました。そしてこの知事は再びこの死刑廃止法案を審議にかけたわけです。この知事が死刑廃止法案を提出するに至ったその背景には、メリーランド州の死刑制度調査委員会があります。死刑制度調査委員会がどのような勧告を出し、どのような人で構成されていたのかということが、その点で重要です。
  まず一番重要なことは、この死刑制度調査委員会において両方の立場の人が参加しなければいけません。すなわち、死刑に賛成の人も死刑に反対の人も両方いなければいけないということです。で、そこに参加した委員は基本的に自由な立場でさまざまな発言ができる。そして、合理的な形で審議その他を進めていく、したがって合理的な中で冷静に死刑制度がどういうものなのかを検討する、そういうことが必要です。
  そしてまた重要なポイントは、この委員会に参加する個人はさまざまな母体を代表するような人々が必要だということにあります。母体というのは、例えば法執行官は必ず入っていなければいけないであろう、宗教界の人、被害者の立場にある人々、刑務所当局に関わっている人たちも必ず入っていなければいけないだろう。それから他のさまざまな地域社会、諸社会を代表する意見が反映されるように、そういう人々の参加が要請されるということになります。
  そしてまた、委員会には十分な時間と人的・物的な資源などが与えられなければなりません。そのうえで、そういう人的・物的資源を使って専門家の意見を聴いたり、それから例えば被害者の人たちの発言を聴いたり、あるいは法執行官がどのような見方をしているのか意見を聴いたり、といったようなことができなければいけません。

国会議員2人のあいさつ(略)

 今、先生のおっしゃったことに関して少しコメントさせていただきたいと思います。日本の人々の中にあるさまざまな要素というものにお触れになりました。
  ほんの少し前まで、実はアメリカでは政治家たちは人々を死刑台に送ることによって自分の票に結びつけておりました。クリントン大統領も選挙戦の最中にアーカンソーに戻りまして、そこで死刑の執行に立ち会っています。このときに執行されたのは精神遅滞を患っている人でした。この人は自分が処刑されることを全く理解できず、その日は「ケーキをあげるから出ておいで」と言われて、そのケーキか何かを「えさ」にそこから出されて、本人は医者か何かに診せられるのだろうというくらいの感覚の中で出されたところをそのまま処刑されたという、非常に残虐なやり方での処刑になっていました。
  このような形で、政治家が死刑の問題に関わるのを躊躇していた状況から大きく状況が変わったのは2004年でした。2004年にジョン・ケリーが大統領選に出ましたが、ケリー候補の場合は本人自身が死刑廃止論であるということはっきり明言し、それで選挙戦に出ました。で、彼は確かに負けましたけれども、彼は死刑廃止論だから負けたということではありませんでした。
  この12年の間に大きく状況が変わったのはなぜかといいますと、先ほど申しましたように、やはり対話や教育というものをずっと続けてきたからだろうと思います。特に政治家の方々ともこういう対話を続けていくなかで、政治家の方々にどうして死刑が必要なんですか、なぜ死刑をどうしても存置しなければいけないと考えるんですかという形での対話をずっとやってきたことが、やはり大きく影響しているのだと思います。
  民主制の国家においては、やはりその判断をできるのは最終的には選挙権を持っている一般の有権者ということになります。有権者がそのような投票行動をするというときには、そのためにきちんとした教育がなければいけないし、また十分な指導力もそのなかで発揮されなければいけません。突然上から降ってきて「こうこうこういうふうに変える」というようなやり方では、動かないわけです。きちんと立法府においてそういう法案を出し、それがきちんとみなさんの支持を得て成立し、実際に進めていくためには、それなりの段階というものがあり、立法府に議案を出すというのはさまざまな段階のほんの途中の段階でしかないということになるだろうと思います。
  これは非常に重要なポイントで、政治家としてこの問題に対して取り組んでいらっしゃる方は、特にこの民主制の状態の中では当然いろいろな反動的な切り返しを受ける可能性のある問題ですから、そこに対して十分な備えをもって対応していかなければならないと思います。
  だからこそ、先ほどの委員会ベースの調査をすることが必要だと思うのです。死刑に賛成の人も反対の人もそこにいる中で、死刑とはどういうものなのかというのを現実の姿として見ていく、その現実の姿がはっきりと調査によって分かるようになれば、これは非常に重要な武器になります。この武器をもってさまざまな教育の機会などにおいてもそれを使って、実際にさまざまな人の意見を動かしていく、以前なら「死には死を」「殺してしまえ」と言っていた人々に対して、「いや、もっと人道的なやり方がこういうふうにあるんじゃないか」「いや、ちょっと待てよ、どうして人を殺した者を処罰するためにわざわざその人の命を奪わなければいけないのか、なぜもう一つの殺人を重ねなければならないのか」ということに関して、もう一回立ち止まって考えてみようという方向にもっていくことができる。そのためには、先ほどの調査などをきちんとやっていくような段階をとった方がよいと私は思っています。
  この問題に関しては米国の人も日本の人もきわめて似ていると思います。いわゆる外圧、外からやってきて「これこれはは良くないから止めなさい」と言われると、どちらの国の人々も非常に嫌うわけです。
  そしてまた社会の中では多数が死刑を支持しており、それが適切である、それを刑事司法のために残しておくことが必要であると考えています。これは私が米国での経験として考えていて、おそらく日本でも通用すると思うのですが、犯罪の恐ろしさを強調するような議論から「どのような刑罰をするべきなのか」「どのような刑罰で進めていくべきなのか」ということに焦点を変えていくこと。これができると、多くの人々が実は犯罪に対する恐怖が云々ということよりも、刑罰を実際にどのように進めていくのか、どういう刑罰は維持しなけれいけないのかというような議論に、きちっと入っていけると思っています。
  ニューメキシコ州の知事に関してですが、この知事はもともとは死刑を廃止する法案には必ず拒否権を発動するような人で、死刑制度のきわめて強い擁護者、死刑制度を支持する人と見られておりました。このリチャードソン知事ですが、委員会その他におけるさまざまな調査結果などをつぶさに検証し、それの感情的ではなく理論的な検討を経たうえで、道徳的な立場ではなしに冷静に現実の状態に向き合って考えたうえで判断すると、これは死刑廃止法案に署名する可能性はある、だから今度死刑廃止法案が提出された場合には自分は拒否権を発動しないというような言い方をしております。
  モンタナ州の場合は、これまでずっと死刑廃止法案に関しては反対していた議員がおりました。しかし、この議員が最近その立場を賛成に変えています。すなわち死刑廃止に賛成であるというふうに変えています。彼が主張をなぜそのように変えたのかというと、無実の人を処刑する可能性は皆無かどうか分からない、その可能性はあるということ。この人間は確実にやったと言えることがあるかもしれないが、しかし、常にそこにはそうではない無実である人を処刑する可能性は残ってしまうということを、彼もまた冷静な教育・検証の結果としてそういう結論を得たということです。
  メリーランドでは委員会からの報告を受けて、その報告書に基づいていろいろ検討したうえで、昨年の12月に議会で投票が行われ、30対9で死刑廃止の法案を可決しております。このメリーランドでの審議に際しましては、だいたい数か月その審議を続けたわけですが、専門家を呼んで話を聞く、あるいは一般の人を呼んで話を聞くといったようなことを慎重に進めております。このような経験は、おそらく日本においてもさほど違わないはずであろうと思っております。
  米国では例えば人種問題などは大きな影響があると言われています。また法域が異なるということで法システムが複数重なり合っていることが問題であると言われています。特に人種問題に関しましては、いわゆる白人が罪を犯したときと、黒人ないしヒスパニックの人たちが罪を犯した場合では、その人が死刑になる確率が大きく変わるということがよく指摘されています。
  しかしながら、例えばそういう人種問題をあまり強く持っていない州において調べていきますと、実は貧困層に属する人とそうでない人の間において、同じような差別的な取り扱いが見られるということが言われております。
  メリーランド州における委員会の調査報告は、おそらく日本などについても共通するだろうと思うんですが、どこで犯罪が行われたかという州内での地域的な違いを指摘しています。すなわち、ある地域で犯罪が行われた場合には死刑になる確率が非常に高かったりするのですが、ある地域では死刑がほとんど行われないということで、これではどこの地域で犯罪が行われたかによって、実は死刑になるか終身刑になるか他の刑になるか違いが出てきてしまうということが指摘されております。
  死刑に関わる問題には厳格性が要求されます。いかなる疑いがある場合にもそれは常に被告人に有利に解釈されなければならないという前提がございます。委員会は1978年~1999年にかけての調査をしたわけですが、最終的な結論として、この厳格性があるがゆえに死刑制度はきわめて高くつくと指摘しております。160ミリオン・ドル(約16億円)ほどのコストがこの死刑制度を維持しているがゆえにかかっていると指摘しております。
  厳格性のゆえに死刑は高くつくということであれば、当然、死刑を維持しようという人々の主張は「じゃあ、もっと早くやってしまえばいいだろう」という言い方になるわけです。実際、そういう反応が出てきているのがユタ州です。これは2ページ目一番最後になりますが、こちらの場合は控訴権を制限する修正法案を出したわけです。これによって結局、処刑前の期間を短くすることを可能にさせようというものですが、しかし、このようになった場合には、無実の人が処刑される危険性を増すということになります。ですから、無実の人を処刑する可能性とのバランスの中で、この厳格性が死刑には要求されているということになります。
  それで、メリーランド州の委員会が結論付けたのは、完璧な制度というものは存在しない、したがって死刑囚監房にも常に無実の人が入れられている可能性があるという結論です。そして、メリーランド州の委員会は、実際には他の州の委員会も同じですが、「スピードを上げることによってコストを削減できる」ということに関しては、それは無実の人を処刑する危険性をさらに増すことになるということで、それを拒否したわけです。
  死刑囚になった場合には再審手続とかどんどん出していかないと、無実の人の死刑執行を回避できないのでそういうものがどんどん出されるということになります。結果的に、被害者にとってみれば、どのような形で処罰がなされるのかに関しては、終身刑という形でやっていったほうが、そこできちんと処罰がなされているという状況が確保でき、他方死刑ということになると死刑が最終的に確定するまで、いつまでたってもなかなかはっきりしないという状態に置かれてしまうことになります。したがって、被害者の立場からしても、死刑よりはむしろ終身刑のほうがはっきりと区切りがつけやすいということにもなります。
  そして、さまざまな委員会の調査結果がこぞって言っていますが、死刑に抑止効果、特に殺人の抑止効果があるとはいえないと結論付けています。
  そのような形でさまざま検討した結果、最近ではニュージャージー、ニューメキシコ、モンタナ、メリーランドなどにおいて死刑廃止の方向がはっきり打ち出されています。そこには、死刑を廃止することが道徳的に云々ということ以上に、実務的に可能性のある実践的な結論なのだという結論のもとに、こういう動きが出てきていることにご注目いただきたいと思います。
  日本も米国も民主制に基礎を置く国であるということを考えて申し上げますけれども、たぶんこの2~3年のうちに死刑を廃止するというのはさすがに起こりえないような状況ではあろうと思います。しかしながら、先ほど申し上げたような例えば委員会などを設置して、透明性のある手続の中で公開で、そしてさまざまな民主主義的な手続を経ながら死刑制度の実態を検証して、そして勧告に持っていく、そういう民主主義的な手続を経れば、おそらく死刑を廃止する方向には持っていけるのではないか。これが、私の米国の各州での経験をみなさんにお伝えするうえで、示すことができる結論ではないかと思っています。
  本日はみなさん大変長い時間にわたってご協力いただきまして、本当にありがとうございました。また(議員の)先生方には先ほどすばらしい発言をいただきまして、どうもありがとうございました。これで一応、私の方からは終わりとさせていただきます。

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質疑応答

(州議会が死刑廃止の議論をしているわけですね。)

 現在、アメリカでは36州が死刑を存置しております。そのうちの2州、ニューヨークとニュージャージーで死刑の廃止が最近行われ、現在、8州が州議会において死刑の廃止法案などを審議している状況にあります。

(憲法の違いだと思いますが、日本の自治体では、46都道府県では一切こういう議論をしません。)

 今のご指摘に関しては「そのとおりである」という部分と「そうではない」という両方の意味合いがございます。といいますのは、いまアメリカの話をさせていただきましたが、立法権あるいは法域の権限がない市とか、郡の中において、死刑廃止を求める地方議会の決議をあげて、それを例えばメリーランド州の中で出していくなかで、ボトムアップでだんだんと死刑を廃止する政治的意思を作り上げていくというやり方をとっております。
  ですから、おそらく日本でも各地方公共団体の議会においてそういう動きを作り、そういう決議をあげていくなかで、政治的な意思を示していくことはおそらく可能だあろうと思います。

(仮釈放のなき終身刑、ある意味で死刑廃止論を逃げているのですが、そうでもしないと死刑が止められないということについて、先生のご意見をお聞かせください。)

 仮釈放の可能性ない終身刑の問題に関しましては、まず一つはっきりさせておきたいことがありまして、私自身はいわゆる仮釈放の可能性のない終身刑については、基本的には賛成はしません。ただし、それが死刑を廃止することとの引き換えということであれば、そこは考慮する可能性がある。なぜならば、死刑の場合は処刑してしまったらそれを後で是正する可能性はありえないわけですが、終身刑の場合は何らかの形でそれを後から是正することが可能性として若干ですが残されているというところがあるからです。しかしながら、刑罰として仮釈放の可能性のない終身刑を入れるということに関しては、私はそれは基本的に正しい選択ではないと思っています。
  そしてまた、死刑確定囚の場合にどうしてコストがかかるのかというのは、その人々を長く刑務所や拘置所にとどめておくからというよりは、手続の厳格性、それにまつわるさまざまな手続をしなければいけないというところに、むしろコストがかかっているということをご理解いただければと思うわけです。

(日本でも裁判員制度が始まるのですが、社会的な格差や皮膚の色で量刑の差が出るというのは、陪審員制度を反映しているのではないか。)

 貧困層と富裕層、社会的な弱者と強者の違いなどに関しましては、先ほどの出た裁判員、裁判官、陪審員の問題などがありますが、こういうところとの関わりで差別や例えば区別が働くというよりは、むしろ検察官のほうでどういう形で事件を立件していくのかというところですでに大きな違いが出ております。そこの部分には、おそらく一つの理由としては、富裕層の場合には十分な法的な補助を付けることができるのに対して、貧困者の場合はそれができないとか、あるいは社会的の弱者の場合はそのような補助へのアクセス手段が限られているとか、そういったところも関わっているだろうと思います。
  「疑わしきは被告人の利益に」というその利益を享受できるのは、実は十分に守られている社会的な強者の側であって、弱者はそういうような利益をなかなか受けることができないというのも現実の問題です。