台湾における死刑執行再開を憂う(台湾死刑廃止連盟・呉豪人)

 

台湾における死刑執行再開を憂う

 

                    台湾死刑廃止連盟(TAEDP)・輔仁カトリック大学法律学院准教授

                                                          呉豪人

 
2010年4月30日、台湾政府の法務部部長(法務大臣)曾勇夫氏が、就任して一ヶ月も経たないうちに、それまで4年3ヶ月にわたり停止状態にあった死刑の執行を再開した。銃殺された死刑囚は張俊宏、洪晨耀、柯世銘、張文蔚四名である。この一件は、2008年5月の民進党から国民党への政権交替が始まって以来、頻繁に起きた諸々の人権退行現象の中の、最も象徴的な出来事といえよう。というのは、現政権の馬英九総統が、総統選挙に立候補した時に提出した「人権政策白書」の中では、当時の陳水扁総統の「人権立国」という政治的スローガンを超えるべくして「人権治国」を打ち出し、国際人権諸規約への全面的遵守を全国民の前に自ら誓約したし、当選後も、終始死刑反対の王清峰女史を法相に任命した。さらに2009年には、党主席として与党の国民党議員に指示を出し、国会に「市民的及び政治的権利に関する国際規約」と「経済的、社会的及び文化権利に関する国際規約」を批准させたことを果たしたからである。また、前政権の死刑停止政策が引き継がれたため、欧州連合からも大いに評価され、シェンゲンビザの台湾適用も獲得したほどであった。ここまで見ると、新政権の下では、台湾の人権のより一層の向上、ひいては死刑の廃止等は、もはや時間の問題であり、疑いの余地がないことと思われるだろうが、事実は全くその逆である。
 
実際、馬英九氏が総統就任してから、我が「台湾死刑廃止連盟」(TAEDP)はつねに死刑執行の再開を危惧してやまなかった。馬氏が口ばかりの政治屋だからではなく(人によってはそれも原因の一つとなるが)、すべての尊い普遍的価値をパロディと化し、実行不能、空洞化にする稀に見る名手だからである。蒋介石親子、毛沢東、鄧小平、胡錦濤、リー・クアンユーら、かつて華人世界に現れた前近代的政治リーダーと違って、馬英九氏は人権等の進歩的諸価値への反感や抵抗を微塵も見せず、それどころか人権擁護をなんら躊躇なく国民に公約をした。ただし、一旦政権を手にした際、それらの価値を平然と破り、なんら恥じらいもなくそれを踏みにじりにした。中心思想や信念を持たない全く新しいタイプの政治家だ。彼にとってカール・シュミットのような紆余曲折な例外状態論が不要なものであり、その気さえあれば日々例外状態でありうる。なによりも彼のもつ権力の正当性は独裁制によらずして民主投票制によるものだからである。
 
その証として、彼が就任して以来台湾の人権状況の後退は甚だしいものだ。2008年末、中国からの特使陳雲林氏を迎えるため、全警察力を動員して全国を戒厳に近い状態にし、デモに奮起した多くの市民や学生や大学教授を制圧、逮捕、起訴した。また、ダライ・ラマや天安門事件の亡命者たちの台湾訪問を拒絶し、ラビア・カーディルさんをテロリストとみてその入国を断った。未曾有の惨劇、モラク風災を口実に被災者の先住民族の強制移住を図り、高汚染産業特区を設けるために収穫直前の田んぼをブルドーザーで農民の目の当たりに破壊して「みせしめ」をためらわなかった。しかも、この悪行の数々が行われている最中に、あの二つの国際人権規約を批准させ、施行法を可決させ、「規約に反する国内法を二年以内に改正する」と公約し、ひいては総統府内に人権諮問委員会までを設けた。全く信じられないほど「左言右行」な人だ。
 
このような政権だから、死刑執行再開など、驚くに値しないかもしれない。もっとも、一番驚いたのは欧州連合だった。死刑廃止とシェンゲンビザの台湾発行に随分尽力してくれたドイツ政府の外相は、台湾駐ドイツ代表(大使)を呼び出して「騙したな、貴様ら」と叱ったほどだった。逆にわが死刑廃止連盟のメンバーたちは、悲しみは感じても、憤怒はしても、驚かなかった。なぜならその執行再開の2ヶ月前に、死刑反対論者の法相王清峰女史は、「民意に背く」という咎で馬氏に退任させられたのだ。
 
驚かなかったけれども、強く抗議をし、総統の背信行為を批判した。アムネスティ・インターナショナルも国際人権連盟(FIDH)も、欧州議会人権委員会主席も副主席も馬氏を譴責した。それでも馬氏は動じなかった。2010年5月21日、死刑廃止連盟は200人近くの大学教授の死刑執行停止連署書をもって曾法相と会見し、「死刑執行停止こそ死刑存廃論争の第一歩だ」と法相に進言したが、法相は「全くおっしゃったとおりだ。われわれの目標は一致した」と軽く連盟の代表たちをあしらい、また6月15日に、連盟代表は馬総統と会見した際、同じ進言をしたが、馬氏は「私は死刑廃止にくみした覚えはない。ただ死刑は廃止したらいいな、と思っただけだ」と軽薄な発言をして憚らなかった。ちなみに、同年7月28日、日本の法相、あの死刑反対の千葉景子氏は、二人の死刑囚の執行命令に署名した。台湾政府は、おおいに奮わせられた。
 
闇黒の時代が来る予感がした。あるいはもう来ていたかもしれない。