第5回「死刑の在り方に関する勉強会」

さる4月11日、法務省の会議室で第5回「死刑の在り方に関する勉強会」が開催された。言うまでもなく、千葉景子元法務大臣が死刑執行の「罪滅ぼし」だか「言い訳」のためだかに設けた「勉強会」である。前年(2010)9月9日にも開催され、この時は千葉大臣(当時)も出席した。2名もの生命を奪った代償に会議をもったにしては、千葉大臣が型どおりの挨拶以外に発言もなく、論者へのまともな質問さえしなかったことが印象に残っている。

今回(4月11日)はむろん出席大臣は千葉氏ではなく江田五月氏である。私のようなフリーランスも含めてメディア関係者の傍聴を許すということで、死刑についての「開かれた」論議の場である、と法務省は自負していたようである。だが、会議の事前告知は殆どなされていないに等しく、私も知り合いの弁護士からたまたま情報をもらい、こちらから法務省に問い合わせた上で、ようやく参加できたにすぎない。実質的には司法記者クラブ参加社程度しかいなかったように思う。またメディアはあくまで傍聴者であり、質疑に加わることもできず、録音も禁止された(法務省のウェブサイトで詳細な発言の反訳が公表されているくらいなら、会議の場での録音を禁止する理由などない筈である)。

昨年9月は、菊田幸一氏(弁護士)岡村勲氏(全国犯罪被害者の会代表幹事・弁護士)道上明氏(日弁連副会長)本江威喜氏(元検察官)がそれぞれ意見陳述を行った。今回は、櫻井よしこ氏(ジャーナリスト)若林秀樹氏(アムネスティ・インターナショナル日本事務局長)椎橋隆幸氏(中央大学教授)の3氏が意見を述べた。何を言いそうか、事前に検討のついてしまいそうな論客ばかりである。また短い質疑応答があったとはいえ、いずれも言いっぱなしで終わり、議論の深化につながるものは何もなかった。何しろ各論者が入れ替わりに入室して法務大臣を始めとする官僚に一方的なレクチャを行うだけで、相互の論者同士は顔を合わせることすらなく、当然意見交換や討議もないわけだから、そうしかならないのは最初から分かりきっている。

各論者の論点を紹介しようなどと思ったら、またたくまに与えられた字数は超過するから、それは法務省のウェブサイト(http://www.moj.go.jp/keiji1/keiji12_00031.html)を参照してもらうこととし、存置論の代表の一人としての櫻井よしこ氏の論点だけを取り出しておきたい。それが死刑存置論の極北にある国家主義の如実な現れだと感じ、死刑とのたたかいとは結局のところ国家主権主義とのたたかいに行き着くしかないという私の持論を再確認する契機となりえたからである。

彼女の発言の一部を、上記ウェブサイトから正確に引用する(是非全文を読んでみて欲しい)

ジャーナリストとしての様々な事件や事象の取材経験から彼女が得た結論とは「司法は社会正義の実現のためにある,社会正義が実現されて初めて国家は正しい意味での秩序を形成することができる,国民は安心してその秩序の中で暮らすことができるということでした」という。

国民とは国家が定める秩序の枠組みにはまってこそ安心して暮らすことのできる客体なのだそうである。そしてさらに「では社会正義とは何かと考え,様々な事故・事件を振り返りますと,往々にして忘れられているのが被害者の人権であり,被害者の立場だったと思います」と、これはまた何の論証もない彼女なりの経験則にすぎない一方的結論が断定的に述べられ(彼女の取材によれば、加害者の人権は守られているのか?)、そこから以下のような論理への飛躍が行われる。

「死刑というものは必要である,むやみやたらに死刑を連発するのではないけれども,どうしても死刑を適用せざるを得ない事案がある,それが,社会正義を実現する司法を確立して,その司法のもとで国民が安心して生きることのできる国をつくるための方法であると信ずるに至りました。法は国民のためにこそあります」ここでも国民とは国家の庇護の下に置かれなければならない客体となり、さらに「国民とはまじめに生きている人たちのことを指します。他者に迷惑をかけることなく,つつましく,自分の責任の範囲内で生きている国民を守ってこそ法は国民のためにあると言えるのだと私は思います」として彼女の道徳観、倫理観からはずれる「まじめに生きている人」とは異なる人間は国家の庇護の外に置かれることとなる。「よって,私は,個人的には死刑などしたいと思う人はいない,私も含めて日本国民を個人ベースで見ればそのような考え方が圧倒的だと思いますけれども,国の責任を果たし,司法の責任を果たし,社会正義を実現し,国民を守るために死刑は必要だと思います」という見事なまでの国家主権主義の論理による死刑の正当化が完成する。そして彼女の国家観とは、つまるところ社会のエリートとしての自己の道徳観や人生観の絶対化を具象化したものに過ぎない。

元裁判官である江田大臣が「死刑を宣告せざるを得ない裁判官の立場をどう思うか」という趣旨の質問を彼女に発した。大臣たるものが、こうした私的体験や情念の延長上からしかこうした場で発言できないこと自体が情けないが、これに対する櫻井氏の回答は「さすが」であった。

「裁判員であれ,裁判官であれ,どう感じるだろうかということはもちろん考えました。個人の立場で考えれば,これほどつらいことはないと思います。非常な重い負担になるだろうと思います。しかし,私はこう考えました。例えば,個人的にはこう考えるけれども,その個人的な考えであるとか感情をこのような公の場に持ち込んで,それによって全体を見失うとしたら,それはむしろ間違いであると」

まさに滅私奉公である。

こうしたやりとりが事実上は密室にすぎない法務省の会議室の一角で繰り返されても、これ以上何も生まないだろう。

アムネスティ・インターナショナルの発言の際に天野理氏が「実際に死刑囚の処遇を経験された方から話を伺うことも必要ではないかと思います」と述べたが、これくらいのことが実現できなければ、千葉大臣の死刑執行を代償とした勉強会など茶番に終わってしまう。

なぜ死刑囚本人をこの場に呼んで、メディアだけでなく市民活動家や被害者・加害者の家族なども同席できる場で、公開で話しを聞くことができないのか?私が言っているのは免田栄さんや赤堀さんのことだけではない。冤罪を訴えている人だけではなく、確定死刑囚本人や死刑執行を職務として強制される現役の刑務官の話しを、なぜ直接聞こうとしないのか?

そうした現実を避けてお上品な意見交換などやっているだけなら、一番「迫力」があり、その意味で「説得力」を持ち得るのは、岡村勲氏や彼とともに出席し、被害者の無念を熱情をこめて語った死刑存置派の心情だけということになりかねない。

今井恭平